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寺伝によると推古天皇の御代(593〜628年)に、吉備地方では日照りが続き、現在の高梁川は枯れ果て渇水となり、民衆が苦しんでいた。
そのころ、四国の道後より飛鳥へ帰られる途中の聖徳太子は、この地に立ち寄り、人々の苦しむ現状を目の当たりにされる。心を痛めた太子は、雨を祈るため霊地を求められ、紫雲が棚引く小高い丘を見つけ、山上に祭壇を築き、七日間一心に雨を請い祈ると7日目に黒雲とともに竜神が現れた。そのとき持っていた錫杖で足元の地面を突くと水が噴き出し、やがて清浄な泉となった。
太子はこの泉の中に竜神を勧請し、再び祈ると大雨が降り注ぎ、高梁川は潤い、渇水で苦しむ人々は救われる。竜神に深く感謝した太子は泉に仏華である蓮華を植え、その側に祠を造り竜神を篤く祀ったのが当寺の開基である。太子がこの地を離れた後は村人たちによって祠は永きにわたり守られたが、時代の変遷により荒廃していった。
平安時代に入り弘法大師空海が当地に来錫され、太子が勧請した竜神の住む泉の存在を知る。泉の周りは木々や竹薮で鬱蒼としてたが、泉は滾々と清らかな水をたたえ、水面には紅蓮華が咲いていた。
大師は感激し、この地に竜神の祠を再建、報恩のため一刀三礼し、太子の本地仏であり、竜神とも縁の深い聖観音の尊像と、脇持として二天を刻み、祠を望む場所(現在の旧森)に一宇を建立、本尊として祀る。「本覚山 森泉金剛密寺」と号し、真言宗の寺院として開山された。(”本覚山”は小字として地名に残る)
平安中期に、比叡山の横川恵心院僧都源信上人が、聖徳太子の足跡を慕って来山された折、弘法大師御作の本尊の痛みが激しく、自ら刻んだ聖観音像を本尊とし天台宗に改宗、中興する。
その後、宗派を真言宗に復すが、相次ぐ高梁川の氾濫で伽藍が傷み、無住の時代が続くこととなる。廃寺寸前になり、この間の詳しい歴史は不明だが、江戸時代中期、良宥上人(寛永6年歿)が当山1世として入寺され以降、法灯が護持される。
当山6世寂空和尚が、水害を免れる為、正徳5年より聖徳太子御開基の地である本覚山へ伽藍の移転を決意。山号を清らかな蓮の咲く山から”清蓮山”と改める。再び開山に向けての礎を築き、次代に後を託され、岩屋村(現在の総社市新山奥岩屋)延寿寺に傳住される。(本堂の天井書付による)
享保3年(1718年)後を受けた当山7世智光上人が当山法印職となり、寺を現在の地(新森)へ移築(客殿欄間に元禄6年(1693年)の書付あり)、再建し中興開山。約30年の在任中に本堂、客殿、庫裏、山門など十宇を建立され、延享3年(1746年)延寿院に隠居される。
宝暦年間(1751〜1764年)に同辻田地区にあった満願寺と明徳寺も水害により廃寺寸前のところ、当山へ合併したと伝わる。
現在は、京都の仁和寺を総本山とする御室派に属す。
参考資料 「森泉寺過去帳」、「真備町史」、「岡田村史」、「備中誌」
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